2009年2月27日金曜日

山本五十六の実像に迫る

山本五十六の実像に迫る
古枯の木

1. 五十六のDNA  
 山本五十六は1884年4月4日新潟県長岡市の王蔵院町で産声をあげた。父は高野定吉、母は峰。定吉56歳のときの子供であったため五十六と名付けられたという。旧姓は高野。五十六の祖父、秀右衛門、父、定吉と兄の譲と登はいずれも長岡藩士、河合継之助(つぎのすけ)に従って戊辰戦争に参加し、祖父は命を落としている。五十六は官軍に対して徹底抗戦を叫んだこの河合敬之助を深く尊敬していた。高野家はもともと儒学者の家系であったため五十六には武人としての血とともに文人としての血も濃厚に流れていたといえるかもしれない。
 1915年五十六33歳のとき山本家に養子に入り、姓を山本と改めた。山本家は山本帯刀(たてわき)が会津で戦死して以来断絶していた長岡藩家老の家である。34歳で会津藩士族の娘である三橋礼子と結婚。五十六の死後、女元帥といわれた人だが彼女に好意を持たぬ日本人が多い。
 五十六の性格については無口、寡言で人におもねることなど一切なかったが一旦親しくなると心置きなく話せる人間であったとされている。エリート意識など微塵もなく、常に海軍と日本の将来を考えて愛国の赤誠は非常に強かった。大変open-minded の人で、他人に威張ることなく、部下の敬礼に対してはいつも端正な敬礼で返していた。自制心の非常に強い人で、人を感服させる洞察力、先見性、見識、度量があった。無表情の中にときどききらりと光る目がある種の威圧感を与えたという人もいる。ある人は五十六は非常に茶目っ気のある人で新橋の芸者衆に人気があったが、意見を述べるときはいつも冷静、沈着、毅然、颯爽とした態度を維持したと言っている。言辞はいつも簡にして要を得ており、交渉は必ず単刀直入を旨とし、いらざる駆け引きを嫌った。だがときどき憂愁さを含んだ表情を見せることもあったらしい。
 筆者の姉2人は熱烈な五十六ファンだった。“五十六が生きていれば絶対に戦争には負けない”と戦時中、主張していた。また五十六の静かで哀愁を含んだ表情がなんともいえぬ魅力だとも言っていた。“Admiral of The Pacific-The Life of Yamamoto”を著したJohn Deane Potterによれば日本人は五十六の中に二つの顔を発見したという。一つは海軍軍人としての顔でありもう一つは神としての顔であったと。

2. 五十六の軍歴
 五十六は非常に利発な子供で小学校は首席で卒業し、長岡社の学資援助を受けながら1901年長岡中学を卒業。同年海軍兵学校(以下海兵と略す)に190人中2番で入学した。同期には生涯の友人であった堀梯吉がいた。04年海兵を11番で卒業したが、当時は日露戦争の真っ只中で装甲巡洋艦日進に乗り組み左手の指2本を失った。指3本を失えば廃兵となるところだった。
 09年初めてアメリカを訪問、11年海軍大学校(以下海大)乙種を卒業、さらに16年海大甲種を卒業。19年アメリカに駐在し、ボストンのハーバード大学で英語の勉強。このときアメリカの航空機産業の発達に注意を払い、アメリカとメキシコの石油産業にも大きな興味を抱いた。23年霞ヶ浦航空隊の教頭を命ぜられたが、26年大使館付武官としてワシントンに駐在。28年帰国したが、帰路ロスに立ち寄り、長岡出身で農場を経営していた新保徳太郎と山岸太三郎を激励している。これがロスとのただ一つの接点。同年練習艦五十鈴の艦長に命ぜられた後、航空母艦赤城の艦長にも任ぜられた。
 29年少将でロンドン海軍軍縮会議の全権随員を命ぜられたがその頃の五十六は条約派よりも艦隊派に近かったと思われる。艦隊派と条約派については後に説明する。
 33年第1航空戦隊司令官になる。34年第2次ロンドン軍縮会議が開催されたが、そのときも五十六は出席。軍縮条約が消滅して無条約時代に突入することを恐れた五十六はこのとき条約派に近い立場を取った。
 35年航空本部長に補せられたが、18インチ砲を搭載する戦艦大和と武蔵の建造に大西滝次郎とともに猛反対。その理由はどのような巨艦を建造しても、“不沈戦船などはありえない”ということだった。
 36年海軍次官となり、米内光政海軍大臣とともに2年7カ月間広田、林、第1次近衛、平沼各内閣に仕えた。米内、山本、井上の三国同盟反対、対米戦争反対の強い一本の筋が海軍内に出来上がった。
 55歳の39年連合艦隊司令長官に転出し43年4月18日ブーゲンビル島ブイン基地の近くで戦死した。
 五十六のことを簡潔に知るためには新潟新幹線長岡駅のすぐ近くの呉服町にある山本元帥記念館を訪問するといい。誕生から死に至るまでの経緯を知ることができるし、館の中央には撃墜された一式陸上攻撃機(航空母艦からではなく、陸上の基地から飛び立ったので陸上と呼んだ)の主翼部分や五十六坐乗の椅子が展示されている。またこの館の近くにある山本記念公園では復元された五十六の生家を見ることができる。玄関上、二階の五十六の二畳の勉強部屋は頭が天井に着きそうな部屋である。
アメリカは長岡が五十六の故郷であることを知っていた。記念館の老ガイドによれば敗戦直前に長岡は大空襲を受け、99%が焦土と化したそうである。焼け残った1%は当時駅前にあった米軍の捕虜収容所。ロス帰って調査したら45年8月1日の空襲で1,143人が死亡し、家屋1,985棟が焼失したとある。

3. 帝国海軍の対米戦略思想
 ここで当時、帝国海軍が抱いていた対米戦略思想を一瞥する必要がある。海軍には2つの戦略思想があった。ひとつは守勢的邀撃漸減(ようげきぜんげん)作戦であり他は大鑑巨砲主義である。守勢的邀撃漸減作戦とはアメリカ海軍を西太平洋上で散発的に迎え撃ち、徐々にその戦力を削ぎながら敵が日本本土に接近するまで待ち伏せてそこで本格的に逆襲して殲滅しようとするものである。日本近海で迎え撃てば長い補給路を維持しなければならないアメリカに比べ日本の守備力は3倍に自然増強されるというのがその理論的根拠であった。だが経済力の脆弱なものが、強力なものに時間を稼がせたら経済格差はますます増大し、経済的弱者はより不利な立場に追い込まれる。よってこの戦略思想は実際的とは考えられない。
 大鑑巨砲主義とは沈まぬ大きな戦艦を建造してこれに巨砲を搭載し、敵が撃ってくる前にこちらから撃ち始め、その長距離着弾能力によって敵艦を撃沈しようとするものである。この思想の下、口径18インチの巨砲をもつ戦艦大和が誕生し、その砲弾は42キロ先まで飛んだ。だが考えていただきたい。弾は42キロも飛ぶかもしれないが、どうやって42キロ先のものに照準するのか。これは飛距離のみを争うゴルフと同じで非実戦的と言わざるをえない。
 

4. 軍政家としての五十六
近時、五十六について名将であったという説と同時に彼は凡将であったとか愚将だったとの説もある。五十六の評価をするとき、軍政家としての五十六と用兵家としての五十六に別けて観察、分析する必要がある。軍政家とは軍人でありながら高度な政治的判断を要求される者のことである、用兵家とは現実に兵隊を動かす者である。まず軍政家としての五十六について述べてみたい。結論からいえば五十六は軍政家として大局を見るの明があり優れた識見の持ち主だった。
なお五十六に関する書物は国の内外で多数刊行されているが、軍政家としての五十六と用兵家として五十六の二面から捉えた書物を筆者は知らぬ。

A.条約派の五十六
 当時の海軍は大別して艦隊派と条約派に分かれていた。艦隊派は軍縮条約を破棄して自由に艦隊の増強をしようとする派であるが、条約派は条約を遵守して艦隊の増強を抑制しようとするものである。1929年から始まった第1次ロンドン軍縮会議に先に述べたように五十六は少将で全権随員として参加したが、このとき彼は明らかに艦隊派で補助艦比率の対米7割を強く主張した。若槻全権が69.75%の比率を呑むと五十六は猛烈にこれに抗議した。
 ロンドン条約は36年に消滅するため、34年から第2次ロンドン軍縮会議が始まった。このとき五十六はロンドン軍縮会議予備交渉の首席代表として参加した。34年に日本はワシントンの軍縮条約から脱退しており、さらにロンドンの軍縮条約から脱退すれば世界に無条約時代が到来することを恐れて五十六は艦隊派に属した。その理由は軍備の制限は我を制限するが同時に相手も抑止するものであるということだった。さらに世界の灯台が日本に対してその灯を消してゆく現実に着眼したものと思われる。だが日本は36年ロンドン条約からも脱退してしまった。

B.大艦巨砲主義に反対
 日露戦争に勝利して以来、日本海軍は大艦巨砲主義の影響下にあった。先に述べたように大艦巨砲とは大きな不沈性の戦艦に大きな大砲を搭載して敵の砲弾が到着する前にこちらの巨砲をもって敵の艦船を撃沈してしまおうとする考えである。つまり敵の手の届かない内にわれから斬って出ようとするものであり射程距離至上主義だった。それは具体的に18インチ砲を9門も搭載した戦艦大和、武蔵、それに途中から空母に変更された信濃の建造に現れてくる。
これに対し五十六は18インチ砲は宝の持ち腐れであり、わが巨艦は敵の戦艦に遭遇する前に敵空軍の雷爆撃により撃沈されてしまうと説いた。五十六は不沈戦艦というものは存在せず国防の主力は航空機で軍艦はその補助に過ぎないとした。つまり航空主兵主義、空母中心主義が国防の要であったのだ。この五十六の理論を強力にバックアップしたのが特攻隊生みの親で敗戦の翌日割腹自殺した大西滝次郎である。
 当時世界に無用の長物が3つあると囁かれていた。ピラミッド、万里の長城それにわが戦艦大和であったそうな。

C.日独伊3国同盟に反対
 36年五十六は海軍次官に補せられた。当時の海軍大臣は東条英機の男妾と言われた嶋田繁太郎。五十六はこの嶋田を“――あのおめでたい嶋はんがーー”と軽蔑している。海軍軍令部長は“グッタリ大将”とあだ名されていた長野修身(おさみ)。後妻が超美人であったため昼間の重要会議によく居眠りをしていた。天皇からなぜ12月8日を真珠湾攻撃の日にしたかと問われたとき、“アメリカの7日は日曜日でアメリカ軍将兵は遊び疲れて日曜日はグッタリしているからこの日がいいでしょう”と回答したと言われている。当時の政府は2頭政府だった。海軍省のほかに海軍軍令部が存在した。両者の責任と権限が明確でなくときにはお互いに責任のなすりあいを行った。陸軍では陸軍省のほかに参謀本部(或る人は参謀とは無謀、乱暴、横暴のことだという)があり海軍と同じような問題を抱えていた。海軍にも陸軍にも人がいなかったということである。
 間もなく海軍大臣は米内光政に変わり、37年には軍務局長は豊田副武(そえむ)から井上成美(しげよし)に変わった。ここに米内、山本、井上のトリオが形成された。五十六は37年2月から39年8月まで廣田、林、第1次近衛、平沼の各内閣に仕え、2年7か月にわたり三国同盟に反対することになった。このトリオは若い海軍将校たちの思い上がった下克上の風潮を完全に抑えた。阿川弘之はこのときが日本海軍のもっとも輝ける時期だったと指摘している。だが米内、山本が辞職すると元の木阿弥に戻ってしまった。
 五十六はドイツを信用していなかった。とくにナチスドイツを。また3国同盟を締結すれば旧秩序を破壊せんとするドイツの勢いに巻き込まれ必然的に現状維持の英米との戦争になることを予測していた。五十六は“日米戦争は一大凶事なり”と言って3国同盟に猛反対した。世界の趨勢はドイツではなくて依然として英米のアングロサクソンによって支配されていることを五十六は熟知していたからだ。
 開戦の直前、首相だった近衛文麿との荻窪の荻外荘(てきがいそう)における会見で五十六が“やれと言われれば半年、一年は大いに暴れてみせる。だが2年、3年では自信なし”と言ったとされている。半藤一利もこの説をとる。だが工藤美代子は五十六のこの言辞は近衛の手記から出たものに過ぎず大変疑問だと述べている。責任感のかけらもない近衛や外務大臣だった松岡洋介を五十六はいつも攻撃していたそうである。
 一方、五十六は近衛に対し、“3国同盟が締結されたのは仕方ないが、対米戦争の防止には最大限努力して欲しい”と頼んでいるそうだ。これは事実であろう。だが惜しいことに五十六は最後まで対米戦争“ノー”とは言ってくれなかった。
 

5. 用兵家としての五十六
 現場で作戦指揮をとるのが用兵家だが、五十六に関しては用兵家としても天才的なイメージがあるものの結論を先に言えば五十六は用兵家としては凡庸であり、勇気がなく臆病で、お粗末な戦術、戦略思想に基づいていたずらに消耗を繰り返し大局を判断するの明を欠いた。
 昔、ニューメキシコ州のアルバカーキーの町でアメリカ海軍の元提督という男に会った。筆者から帝国海軍の戦いぶりについて意見を求めた。こちらとしては、帝国海軍は劣悪な条件下にあっても善戦したとの回答ぐらいが来ると期待していた。だがその期待はまったく裏切られた。彼はアメリカ海軍は帝国海軍をチキンだと見做していたと言ったのだ。チキンとは臆病者を意味する。帝国海軍はあと一押しすれば完勝できたもかかわらず、勝を粘らずいつも早々に引き揚げてしまったそうである。当方に言わせれば深追いしないのがその伝統であるかもしれないが、小成に甘んじ貪欲なき淡白すぎた戦闘行為が提督にはチキンと映ったらしい。
 先ほど紹介したPotterは、帝国海軍はイギリス海軍より多くを学んだが、イギリス士官の甘い端麗なマスクにのみに惚れてそのマスクの裏側にあるむき出しの闘争心を学ばなかったと記している。さらにイギリス紳士という一つの鋳型の中に自分をはめ込み、彼らが何を考えているかという点を深く洞察しなかったとも述べている。
 以下に五十六が関与した4作戦についての私見を述べたい。

A.真珠湾攻撃の失敗
 五十六は帝国海軍の伝統的、守勢的、消極的、対米戦略思想を捨てて自ら撃って出るという積極的戦法を編み出した。Potter は五十六の対米戦略思想では真珠湾湾攻撃は当然の帰結であったと記している。ではその戦い振りはどうだったか。日露戦争以来、我が海軍の伝統は“戦場近くに指揮を執れ”“旗艦陣頭主義”“陣頭指揮”ということだった。だが五十六は真珠湾攻撃にもそのあとのミッドウエイ攻撃にも最前線で指揮を執っていない。瀬戸内海の柱島錨地か敵機の行動範囲外のところにいた。これはいかなる理由によるであろうか。チキンと言われても仕方ないか。
 いずれにせよ真珠湾攻撃は大失敗であった。アリゾナ、カリフォルニア、オクラホマ、ネバダ、ウエスト・バージニアなどの旧式戦艦を沈没させさらに13隻に損傷を与えることができた。だが真珠湾の水深が浅かったため、アリゾナ、ユタ、オクラホマの3戦艦を除くすべての艦船は引き揚げられ、修復され後日戦列に復帰。最大の悲劇は正式空母を1隻も撃沈できなかったことだ。
 さらに巨大石油貯蔵庫、潜水艦基地、艦船修理所、海軍工廠などは無傷。戦艦なしでは戦争ができないと思っていた帝国海軍の意思に反し、米潜水艦隊の幹部は彼らが直ちに作戦行動が可能であることをキンメル提督に報告している。わが機動部隊の南雲長官は第1次攻撃隊を第1派、2派に分けて出撃させたものの、小成に甘んじて第2次攻撃隊と出動させなかった。五十六は南雲を深く信頼せず、このことを予測していたと工藤美代子は言うが、ではなぜ五十六は南雲に対し第2次攻撃隊を発進させよと命令しなかったのか。
 世間では五十六が真珠湾攻撃の意図を訊かれたとき、“米太平洋艦隊に大打撃を与え米国民の戦意を回復できぬまでに喪失せしめることにある”と宣言したとされている。だが本当に五十六がそんなことを言っただろうか。これは世間の思い込みだろう。アメリカの軍事、経済力に精通し、しかもアメリカの国民性と戦史を知る者としてこんなバカな発言はできないと確信する。アメリカには太平洋艦隊のほかに大西洋に大艦隊が存在したし、さらに空母25隻の建造計画もあった。事実、世間の思惑とは反対に開戦前、アメリカ国民の85%が対日戦に反対であったのが、真珠湾の一撃により100%が戦争賛成に廻ってしまった。
 余談ながら五十六が真珠湾の計画を発表したとき山口多門を除きすべての提督が反対したが、一応の成功を収めて終了すると“真珠湾は俺がやった”という提督がたくさん出てきたそうな。

B.ミッドウエイの敗戦
 わが驕れる連合艦隊は42年6月5日ミッドウエイ島の近くで、赤城、加賀、蒼竜、飛竜の虎の子正式空母4隻と航空機322機それに百戦練磨のパイロット多数を失い完敗した。植民地軍相手の緒戦の戦勝に勝利に酔い、“敵には戦意が乏しい”とアメリカを甘く見た慢心の結果である。でもその一寸前の42年春の花見はそれまで日本民族が経験したことのない最高のものだった。筆者は当時のことをはっきり記憶している。桜の木の下で大人たちは“勝った、勝った”で酔いしれていた。兵隊を見ると酒食でもてなし‘アメリカ兵は日本兵を見ると泣いて逃げるそうだ“、”戦争はもうすぐ終わるから兵隊さん、早く戦地へ行きなさい“、”アメリカ海軍は日本の病院船しか攻撃できない“とわめいていた。
 Potter はミッドウエイで大勝したら五十六は東条に圧力をかけて米国との講和にこぎつける計画であったという。彼はもし五十六がミッドウエイまで来て指揮をとり、戦艦と巡洋艦郡をこの海戦に参加させ、さらにアリューシャン列島まで陽動作戦に行った空母の瑞鶴を参戦させていたら日本は楽勝したであろうとも書いている。
 では講和の可能性はあったのか。42年春、ワシントンに特使として派遣されハル国務長官とのネゴを重ねた来栖三郎大使らが帰国した。東条が彼らの慰労のためパーティを開催したので来栖はこれをチャンスと東条に対してアメリカとの早期講和をすすめた。だが東条は有頂天になっていて聞く耳をまったく持たなかったし、来栖は東条の単細胞(simplicity)ぶりに腰を抜かすほど驚いた。
 軍事学には避けてはならない鉄則がいろいろある。作戦間隔もその内の一つだ。連合艦隊の将兵は真珠湾攻撃、マレー沖海戦、インド洋への遠征、スラバヤ沖海戦などで疲労困憊の極に達していた。近藤副提督は彼らをしばらく休養させるよう進言したが五十六はそれを拒否しミッドウエイ海戦を急がせた。アメリカでは五十六のせっかちな性格が日本の大悲劇を招来したとしている。この敗戦の結果に対し五十六は責任を追及されなかったしまた責任を取ろうともしなかった。半藤一利はその頃帝国海軍は無責任主義の染まっていたという。
 戦争にはいつもインテリジェンスが必要不可欠である。インテリジェンスとは知性ではなくて軍事用語では敵情判断を意味する。Potterはミッドウエイのころから帝国海軍にインテリジェンスが欠如しすべて推測(guesswork)に頼っていたと述べている。
 ミッドウエイの敗戦により短期決戦を目指した五十六の夢は完全に打ちひしがれた。アメリカ側はその後日本海軍の作戦は支離滅裂になったと伝えている。開戦へき頭、“本職と生死を共にせよ”と訓辞した五十六の強靭な闘志は衰えてしまったかもしれない。
ミッドウエイの敗戦を日本政府は秘匿とし、反対に戦果をあげたような発表をした。当時、小学校では黒板に先生が大本営の発表する戦果を書き、これを生徒に読ませていた。敵の空母2隻を撃沈したが、当方損失も1隻撃沈、1隻大破というものだった。いつもの華々しい戦果の発表に比較して、子供ながら我が方の損害の多さに驚いた。五十六は“嘘を言うようになったら戦争は必ず負ける”と言っていたが事実そのようになった。

C.第1期ソロモン消耗戦
 42年8月7日から43年3月7日までのガダルカナル島(以下ガ島と略す)を巡る大消耗戦である。(Attrition without intermission)陸軍の戦死者14,550、戦病死4,300、行方不明2,350、海軍は24隻、13万5千トン、海空軍機893機、パイロット2,362人を失う。消耗戦になれば軍事力と経済力の弱い貧乏人の方が必ず負ける。
 ガ島は陸海軍の本拠地であったラバウルの南東1,100キロにあった。攻める方の力がある線を越えると減退し、反対に退却する方が勢いを得て攻守そのところを異にする一歩手前の線が攻勢終末点である。攻勢終末点を越えて進撃してならないのも軍事学の鉄則である。日本はこの攻勢終末点を逸脱し、実力不相応に侵攻しすぎた。無定見に戦力を消耗するのではなく、もっと早く戦線を収拾すべきであった。
 空手では大男と対決するときは正面攻撃を避け、横から攻撃を仕掛けろと教える。大男でも横からの攻撃には弱い。また時間的に余裕のないときは体を小さくして思い切って相手の中に飛び込んで死中に活を求めるべきだという。空手と戦争を比較することは無理だが、帝国海軍には正面攻撃より他に方法はなかったのか。大局に着眼し早く防御の態勢を固めるべきであったと思う。
 ガ島からの徹退を小学校でも徹退とは言わせず“転進”と言えと教えられた。これも嘘の糊塗である。慶応大学のある教授がこれを英語で“strategic retreat”と説明したら、陸軍から“advance by turning”と言えと横槍が入ったそうだ。
 その後第2期ソロモン消耗戦が展開されるが五十六はそのときはもうこの世にいなかった。
 なぜ見込みのない消耗戦を続けたのか、五十六の責任はやはり重大であったと思う

D.“い号作戦”と戦死
 42年8月カロリン諸島のトラック島に連合艦隊の本部が移され五十六は大和に座乗した。戦艦の大和や武蔵には最早出場の機会がなく専ら将兵の宿舎として利用されていた。アメリカではこの事実を知っていて、これら冷房の完備した2艦をヤマトホテル、武蔵旅館と呼んでいた。
ガ島撤退後ラバウルの航空隊は連日敵の空襲を受けていた。この頃になると日本人パイロットの士気は著しく低下した。搭乗機が撃墜されるとアメリカ人パイロットは素早く救助されたが日本人パイロットは放置された。撃墜しても撃墜しても敵は新たな航空機が補充され物量の差を思いしらされた。士気の低下に対してはmorale builder(士気の再建)が必要だった。五十六のラバウル行きはこの点から捉えるべきだろう。
この敵の航空兵力を撃滅し、ニューギニア東海岸への補給路を遮断するための攻勢が“い号作戦”であった。航空機約380機が参加した日本最後の大規模航空決戦となった。43年4月7日から始まり11、12、14日と出撃、16日に終了したが戦果ほとんどなし。わが方はゼロ戦18、艦攻16機、一式陸攻9機が撃墜された。
 工藤美代子は五十六最後のこの作戦は五十六が命令した作戦ではなくて。現地の司令官に任せた作戦であったと記述している。もしそれが本当とするとその頃五十六の闘争心もすでに萎えていたかもしれない。だとすればラバウル行きは彼自信の士気の高揚のためでもあったとも推測される。
 五十六は4月3日トラック発、その日の午後ラバウルに着いた。出撃部隊の士気の鼓舞が主目的だったろう。17日作戦の反省会があり、翌18日ブーゲンビル島のブイン基地に移動しようとした。19日にはラバウルからトラックに帰還する予定だったらしい。だがブインの目的地に到着する15分前に待ち伏せしていた米軍戦闘機P38, 16機に撃墜されてしまった。アメリカ側は五十六の時刻厳守の性格を知っており、彼の時刻厳守の習慣がアダになったとされている。ハルゼー提督は五十六を邀撃、撃墜したとき“かもの袋の中に一匹の孔雀(五十六のこと)がいた”と言って大変喜んだが、同時に米首脳部は五十六無き後、講和のための交渉相手が日本軍部の中にいるかどうかと心配したと半藤一利は述べている。事実アメリカ海軍首脳部の間では次のように言われていた。“山本は一人だけで彼を継げる者は一人もいない”(There was only one Yamamoto and no one can replace him.)
 アメリカの将兵の中で真珠湾攻撃以前、五十六の名前を知る者は誰もいなかった。だが真珠湾の後、五十六を知らぬ者はなく、彼は全アメリカ人の怨嗟の的となってしまった。邪悪の権化、スニークアタックの首謀者、後ろから人を刺す殺人鬼などの汚名が冠せられた。そのため五十六殺害の計画は復讐作戦(Operation Vengeance)と呼ばれ、周到な準備がなされた。アメリカは山本を殺せば日本国民に精神的大打撃を与えうると確信していた。(--it would stun the nation psychologically---)
 一方、日本側では五十六のブイン行きを信書使で知らせようという意見があったが、其の年の4月1日に新しい暗号ができたばかりだから暗号で知らせようということに決まった。ところがこの新暗号をアメリカ軍はアラスカ・ダッチハーバーの深い地下壕の中で4月14日朝までに解読に成功していたのだ。彼らのインテリジェンスには驚くほかない。なお五十六に仕えた参謀は全部で12名いたが通信、暗号の参謀はいても情報参謀は一人もいなかった。
 五十六が戦死したのは43年4月18日だったが、これが日本国内で発表されたのは同じ年の5月頃だったと思う。筆者は小学校の5年生でこれを先生から最初に聞いた。先生が“山本大将が戦死された”と発表すると、ざわざわしていた教室の中が一瞬シーンと静まりかえった。いつもは東京の方向を向かせて“天皇陛下に敬礼”と言って礼をさせていた先生がこのときは“山本大将に最敬礼”と“最”をつけた。先生も気が動転していたのだろう。日本国民はしばらく呆然自失の状態にあり、子供ながら五十六無しで戦争に勝てるのかとの危惧の念がよぎった。彼の国葬は6月5日、日々谷公園で行われた。

6. 終わりに
 日本や世界の偉人について調査研究することは筆者の趣味の一つである。今までに日本人では石川啄木、野口英世、ジョン・万次郎を取り上げ、外国人ではドイツのビスマルク、トルコのアタチュルクなどに傾倒した。今回、五十六を書くについて新潟長岡市の山本五十六記念館、東京赤坂の水交会、広島江田島の旧海軍兵学校、舞鶴の旧海軍機関学校、横須賀、呉、佐世保、舞鶴の各軍港、真珠湾などを廻り五十六を知る人にも会うことができた。
 各種資料を集めて書き出したとき不思議な体験をした。それは対米戦争に反対しながらこれに巻き込まれ全海軍の先頭に立って戦わざるをえなかった五十六の無念さが筆者に乗り移ってきたように感じたのだ。他の偉人たちの研究では一度も感じたことのなかった不思議な経験である。
一時はアメリカ全国民の敵(personal foe of every American)とまで言われた五十六だが現在彼はこれをどのように理解しているだろうか。また用兵家としての五十六は凡庸だったと失礼なことを書いた筆者を五十六は許してくれるだろうか。
 五十六が戦死してすでに66年。南冥の果てに散華したこの不運の知将に対して心からの冥福を祈りたい。

主たる参考文献
John Dean Potter“Admiral of The Pacific-The Life of Yamamoto”William Heineman Ltd.
1965
阿川弘之 “山本五十六 上、下巻”新潮文庫 2004
半藤一利 “山本五十六” 平凡社 2007
工藤美代子 “海燃ゆ”講談社 2004
岡本孝司  “日本敗れたり”創造書房 2003
山本義正  “父 山本五十六 家族で囲んだ最後の夕餉”恒文社 2007

古枯の木―アメリカ在住35年以上。歴史愛好家。著書に“アメリカ意外史”など。
筆者の先生は国際法と国際政治の権威だった。その先生が論文を書くについてよく言っていたことがる。多くの資料に目を通すことは勿論必要だが、ベストと思われる本一冊を徹底的に読み果ては“ヨミ”をなすぐらい読みこなせということだった。読みとヨミは違う。今回それに近かったのは工藤美代子の上述の書物である。さらに先生は日本の本だけでなく外国の本も一冊は読めと教えてくれた。今回の外国の書物はPotterのそれである。

古枯の木-2009年2月26日記す。

2 件のコメント:

  1. 素晴らしい!何度も読ませて頂きます。一度読んで終わらせるにはもったいない!よく読んでから又コメント致します。お疲れさまでした。後日談などまた書いて下さい!楽しみにしています。

    返信削除
  2. 父親の名前、高野定吉ではなく、高野貞吉が本名です。

    返信削除